第1話「ドッジボール未開の地、けやき台へ!」
1995年4月、私は6年間勤務した三田市立三輪小学校を離れ、けやき台小学校に転任した。けやき台小学校は当時文部省指定の体力作り研究指定校として市内でも有数の体育に力を入れている学校で開校3年目にして、市内各種のスポーツ大会でめきめきと成果を上げつつあった。これは学校として体育を中心に取り組むことから体育を愛好する子どもたちが増えていたことと、それにも増して積極的に大会への参加を呼びかけ、休日を厭わず練習、大会にと参加される先生がたくさんいらっしゃったことが最大の要因であろう。(教師の社会体育への参加の是非については賛否両論あり、特に全体的な時代の流れ、学校のシステム上批判をうけることも少なくないのでここではこれ以上論じない)
そのような学校であるから、さまざまなスポーツを子どもたちが楽しんでいるのであろうと思いきや…・校庭でドッジボールをする子どもたちの少ないこと!中学校のグランドにも負けないくらい広いけやき台小学校のグランドでは低学年から高学年までサッカー一色であった。時はJリーグの大ブーム、日本中がこれまで日本のスポーツ界の中心として君臨してきた野球とは違って、おしゃれで洗練されたJリーグの選手、ユニフォーム、グッズ、応援スタイルなどに魅了されていた。(そう言えばJリーグのショップが店内入場制限されたり、夜のゴールデンタイムにベルディ対マリノスなどやっていました・・)
そこに、たかが子どもの遊び「ドッジボール」が入る隙があるわけがなかった。
加えて、けやき台小学校には陸上競技に力を注ぐ先生がいらっしゃた。通常なら秋の駅伝大会だけが三田の陸上に関する大会であったが、(春の三田リレーカーニバルは1996年より実施)県のリレーカーニバル、陸上大会春、秋、万博公園で開かれていたチビリンピックというオープン参加の大会にまで希望者ではあるが参加していく「風土」が学校にあった。当然教師もそちらの指導が中心になる。ドッジボールのドの字さえもけやき台小学校にはなかったのである。
さて、そのような状況のなかで私自身がドッジボールに全くこだわりがなかったという訳でもない。実は三田市では1992年(おそらくです・・)からドッジボール大会が始まっていた。私は第2回大会に三輪小学校で担任していた5年生のクラスを率い、参加、準優勝までしていたのである。「第3回こそは昨年の雪辱を果たし必ず優勝を!」と子どもたちとともに燃えていたところに、阪神淡路大震災・・第3回大会は中止となり、当時からライバルであった松が丘小学校の6年担任から卒業前に試合をしませんか?ともちかけられたものの実現できず、ドッジに未練を残しながらそのままけやき台小学校に転任にしてきた経緯があった。
当然けやき台でも!という思いがあり、転任早々、早速クラスの子どもたちとグランドへ・・所が前述したようなグランドの様子、そしてあきらかに小さい頃からドッジをしていないとわかる子どもたちの動きに驚いてしまった・・現在はどうかわからないが三輪小学校では休み時間グランドが狭いのでサッカーは禁止であった。仕方ないので子どもたちは小さい頃からドッジをせざるを得ない!?荒削りではあるが高学年にもなるとひとつやふたつ魅力的なチームはすぐできてくる(三田市の大会でもそう言うチームいくつかありますよね?)
転任1年目、日々の仕事と学校の風土になじんでいくことが精一杯の毎日の中、私にとってドッジボールが、自然とただの思い出になっていくことにそう時間はかからなかった。
(続く)