第3話「井の中のオタマジャクシ」
記念すべきベストトゥエルヴの最初の公式戦、コープカップはオリックスの本拠地グリーンスタジアムに隣接するグリーンアリーナ神戸で開催された。子どもたちは万全の体制で望んだはずであった・・。
勢いで監督を引き受けたものの、指導方法など全く思い浮かばない私には大変頼りになる後輩の教師がいた。第2話で紹介したT先生と、もう1年後輩で元気はつらつとしたM先生である。お二人ともスポーツ万能で、特にT先生は大学まで野球をされており、普段の子どもたちへの指導も大変理論的であった。人に頼るのが得意?な私は早速お二人に手伝いをお願いし、テクニカルコーチ的な役割を引き受けていただいた。今からは考えられない夏休みに入ってからの大会だったので、1学期の終業式の翌日からの練習だったように思う。
ルールを把握することから始まった練習であるから、的を得ているわけがない。使い古しのビニールテープを職員室のあちこちから調達し(当時の先生方すいません!)公式のコートを体育館に急造、そのこれまでみたことのない形にひとり感心する私(^_^;)いざボールを持って・・ところが学校には公式のドッジボールは前年度三田市大会で3位になった副賞のボールが2個、あとは学校体育用のゴムのドッジボールばかりである。毎回2個の公式ボールをかけ争奪戦を繰り広げる子どもたち( ̄_ ̄;)それでもドッジにかける情熱は人一倍、キャッチボールの一球一球にも5年生にしてはどうしてなかなか気合いが感じられる。コートを使った練習になると思わず「ほーっ!」と感心するようなプレーも2,3見られた。
子どもたちの話し合いから、外野に選ばれていたのが、Iくん・Sくん。(子どもたちの発想は単純に外野のコートを有効に使うのは二人と思ったのでしょう。どちらも小粒だが、運動神経抜群の今考えると非常においしい素材?だった)全くの指導なしで、サイドへの移動からのアタックを会得しようと懸命で、練習ではすでに何度か決まるようになっていた。内野のポジションもすべて子ども任せ(というか私自身のポジションという発想はこのころ全くありませんでした・・)このように同学年で16名、常時練習に参加しているのは13,4名という状態であったから、チームワークはよく、ほとんどは子どもたちの自主性にまかせた練習だった。(自主性とは名ばかり、ただ指導方法がわからなかった!)
大会を目前に控え、子どもたちにまかせた練習ではあるが、的確なアドバイスを送るT先生に聞いてみたことがある。
「T先生、この子ら、結構うまいんちゃうん?」
「うん、うまいですね、かなり」
T先生は、冷静だ。
「もしかして、勝つんちゃうん?」
「いや、負けるでしょ」
T先生は言い切った。勝ってもひとつあればラッキーだと。(後で述べるがその予言は現実となる)それにしてもなんと的確、かつ冷静な答え、それに比べてなんとあさはかな私の甘い考え(^^>“監督がこんなだから、子どもたちもいたってお気楽、二言目には「優勝するぞ!」だった・・
確かに今考えても子どもたちの能力は高かったように思う。学年でもトップクラスの運動神経の持ち主が大半を占めていたし、体格も大きい子がたくさんおり、しかも同学年。5年生というハンデを差し引いても、予選突破は楽勝ではという甘い考えがまだ私にはあった。
「いやいや、Tくんはそう言うけど、わからんぞ・・!」
そして当日。
大会会場へは、電車で参加した。ウッデイタウン中央駅から保護者の方々に見送られ、意気揚々と勝つと信じて疑わない監督と子どもたちは、なぜか半分遠足気分m(_ _)mあんななごやかな楽しい気分で大会会場に向かったのは後にも先にもこのときだけだろう。
結果は、・・T先生の予想通り1勝1敗、予選リーグ敗退。何をしたのかわからぬままあっという間に試合を終えた第1試合目。対戦相手はどこかの子供会チームだったように思う。第2試合目は気を取り直し、なんとか勝てたようだが2位上がりの予選リーグも上がれなかったことを思うとよほど第1試合目が大敗だったのであろう。子どもたちと何より私の甘い考えはもろくも打ち砕かれた。と言うよりも打ち砕かれたという思いもなかった。弁当を食べてとっとと会場を後にした私にはまだまだドッジを学ぶ姿勢さえなかった・・。井の中の蛙にさえなっていなかったのである・・
(続く)